「しあわせって条件がないんだなあ」
8月の上旬にふと外をながめていて、ぽうっとながめていて我に還ったあと「しあわせ。。」ってつぶやいていたんです。
そのあと、しあわせにはしあわせの条件があるとこんなにも思っていたのかと、えっ!?ってゆう驚きとともに拍子抜けがやってきまして。
抜けたあと、自分という力が抜けたあと、外界がぱあっと鮮やかになったんです。内側から外側を見ているのでもなく、境界線がなく、ただ外側を見ているだけの状態がなんとも鮮やかで。その鮮やかさとともに未だ拍子抜けしている状態です。
それなのに、「いつも元気ですね」って言われるってゆう。元気なふりをしてなんとか保っていたときよりも、拍子抜けしているほうがですよ!やっぱり隠せてると思っても隠せてないんですよね、いろいろと、ほんとうに。
言ってみれば、思い描いていたしあわせになる為の条件が、人であったり状況であったり環境であったりの、こうであったら、こうならしあわせなんだと思っていた条件が、未だになにひとつないんです。
にもかかわらず、だからこそ、自我が抜けて、いっときではありますが、私、が抜けて、なんて窮屈をさせていたんだと。いかに知らず知らずのうちにしがみついていたんだと。そうとなったら芋づる式に、ほろほろほろほろ条件がほどけていったんです。
ありがたいですねええええ。
らくーーー。
らっくらく。
そうは言ってもスッと入り込んできたりはしますけれど、やっぱりこうでなきゃとか、そんなのきれいごとだとか、ね。
でも、もどるんです。
時間がかかることもあるけれど
内側を卒業する。
外側をそのままみる。
多重層、多重奏になっている外側をそのまま。
こうだからと転化せず、起こっていることを鮮やかなまま。
私の内側しか外側には見えていない、そのまんま。
境界線がないそのまんま。
鮮やかな世界の一部って言ったらいいのでしょうか。
それが恐かったんです。そのままが見えてるってことが。でも、隠せてないから、そのままが現れる。恐がりようもなくなりますよね。隠しようもないと恐がりようもないんですね。
どうなることやらです。
でも、実りの方へむかっている、どうなることやらです。
はい。こんなふうに、このひと月は流れてゆきました。拍子抜けの8月でした。心身がまだ慣れていませんが、実りあるひと月をありがとうございました。
みなさんはどんなひと月でしたか?
夏の終わりの夜風を全身に。
なんであっても。
できうるかぎり、なんとかかんとか言いながら。
来月ものびのびと。
なにが起こるかわからない日々をゆうゆうと。
今日も明日もいい眠りを。