「今日もいい日を、いい眠りを」

【ゆらぎと眠り】のセラピスト浅沼瞳です。二宮町在住。サインマップ、リズムナンバー、ミントと。心身と数の探究ブログ。

「オーイ!」から4年。

声を聞いたこともお会いしたこともない方に「オーイ!」と呼びかけてから4年。あっというまではなかったし、3年?4年?と時空がぼやけるくらいには時が流れているし。

私の力不足とかまわりの状況や雰囲気を見て、何もできないから、と何もできない歯がゆさをそうだよねと考えないように蓋をして1日、2日、やり過ごしてみたりしたけれど、「なんにもできない」をわかった上で、なんにもできないからといってなんにもしないと、それこそ命がそこにあるのにないことになってしまうじゃないかと、往生際の悪い私は、あきらめた上でいつだってあきらめの悪い私は、はじめて「オーイ!」と呼びかけたその場所で、4年だから……約1500日、呼びかけ続けた。

「おはようございまーす」とか「ども!」とか心の中で「こんにちは」と言ったり、ぽんと手を合わせたり、ただただ眺めていたり。考えごとで頭がいっぱいの時も、そこにゆくと山がゆうゆうと見えて、川がながれてて聴くでもなく水の音が聞こえてきて、風がそよいで、呼びかけないときもあったりしながら、しようとしなくても呼びかけがなじんでいって。

去年の7月か8月かの陽射しまぶしい夏の日に目をほそめながら、振りむいて、「………ずいぶん遠くにいってしまったなぁ………。」と立ち止まった日があった。それでもニュートリノよりも無意識もふくめた意識は波動としては重いから早くはないけれど届くしね、とかなんとか言いながら変わらず呼びかけて。

数ヵ月前、いつもの声にならない返信の声がなく、薄衣に包まれたおだやかーな光の返信の日があった。冬のあったかさからかな、と感じたそれが、どうやら返信だったみたい。みたいとしか言えないのだけれど、ただ、私は早とちりや勘ちがいはしょっちゅうだけれど呼びかけていたからこその確信の「みたい」であって、そうでなければこうして書けない。そうこうして今も変わらず眺めていて、しかもずいぶん遠くにいってしまったなぁと感じたときよりも、ずっと近くにいるような気がしてる。私は呼びかけてしまったからわからないけれど、おそらく、なんにもしないでいたら、今ごろ虚しくなっていただろうと思う。おだやかではいられなかっただろうと思う。なにもしないままだと虚しくなる、と見越して呼びかけようとしていたらなお、虚しくなっていただろうと思う。

このところしみじみ思うんです。起こっていることがすべてで、目の前の手の届く範囲で起こっていることだけがすべてではないってこういうことで。執着よりも脱出と感謝をは、誰かにむけているのではなくて、場所や状況にむけているのではまったくなくて、ひたすら、ひたすら、私にむけているもので、そのなかで、あたりまえのようにこうだと思っていることをベリッとはがす作業やはがれてゆく過程はとてもキツい。ただ、遠くの方で「あれっ?」と察知しはじめている反射や反転がふくらみだすと、どこにむかうでもない感謝がしみじみとあふれてくる。そうしてその状態から決めてゆくと、いつのまにか、いつか、誰かのためになってたりする。そうでないと、そのほんの少しの違和感に立ち返れない場合、なにかあった時にただ断ち切るとか、正しさを主張して人のせいにしたり状況のせいにしたりしてしまうし、そういうすり替えはその場を一瞬しのげたりするけれど、同じ方向、同じ場所にいるからとても苦しい。

「オーイ!」から4年。いまだに知らないことだらけで、私は私のこともよく知らないし、そのぶん伸び代たっぷりで、今まで知らなかった私に出会えると、ぱあっと充ちてくよろこびに出会える。そういうことがあるんだと、4年かけて、声にならない声でたくさんたくさん聴かせてもらいました。そうして、これからもいつもの場所で、状況は変わった今も深呼吸したり、のびーっとしたり、手を合わせたり、眺めたりしていきます。

寒と春のあわいの日。